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大木秀一先生×札幌市立藻岩高等学校

コンクールで演奏する以上、避けては通れない「審査」。音楽に順位を付ける難しさは筆舌に尽くしがたく、そこには様々なドラマが生まれます。大木先生の「はじめての全国大会」、その審査のゆくえは―
2025年10月15日

第37回全日本合唱コンクール全国大会(1984)
大阪フェスティバルホール
高校の部A No.2 北海道札幌藻岩高等学校合唱部
自由曲:女声合唱のための三章「愛の河」より 華燭・誕生(作詩:和田 徹三 / 作曲:湯山 昭)
指揮:大木秀一
ピアノ:久保澄子

37人でスタートした全国大会への道のり

合唱連盟の全国大会に出場したのは就職からちょうど10年目の大会でした。振り返れば様々な事がありました。 連盟のコンクールに初めて出場したのは就職4年目のこと。当時、他校の部員は50人前後、最も多い学校は70人以上いたと思います。私が指揮していた札幌市立藻岩高校は37人で、当時としては下から数番目の人数。本番前日の出演順抽選会で藻岩高校の前後になった学校は喜んでいました。それでも出せる力を存分に発揮した結果は第3位。初出場としては思った以上の成績でした。

届かなかった、あと1歩

その後、全国大会出場への最大のチャンスが訪れたのは初出場から7年目の大会でした。満足できる演奏で「今度こそは届いたか…!」と思えた出来でしたが結果は金賞2位。全国大会への出場権は得られませんでした。 時効だと思いますので少しだけ裏事情を明かしますと、7人の審査員のうち大半の方からは1位などの高評価をいただけた一方、最下位に近い評価(20団体中16位)もいただき、その当時北海道で採用していた『順位点の合計で少ない団体が1位になる方式』により2位となりました(どんな審査方法にも一長一短ありますし、多様な観点から評価していただくために多くの審査員をお招きしておりますので、評価が割れるのは当然の事です)。

ついに念願の全国へ

そして迎えた1984年。北海道の審査方法は『新増沢方式』になっていました。加えて高校の部にA・Bの部が設けられ、私たちは高校A部門に出場。納得のいく演奏をすることができ、祈るような思いで結果発表を待ちました。結果は、ついに念願の全国大会出場。実はこの時も7人中6人の審査員から1位をいただいた一方、お一人からはかなり厳しい評価をいただきました。晴れて北海道代表になっただけでなく、全部門を含めての総合1位という思いもよらない結果に生徒は皆大泣きして喜んでいたのを覚えていますが、審査方式が変わっていなければひょっとすると出場できていなかったかもしれません。
 念願の全国大会の会場は改修前の大阪フェスティバルホールでした。当時は課題曲も含め12分以内の制約がありましたが、演奏はギリギリの11分50秒台。結果は銅賞でしたが(当時のAの部は金賞1団体、銀賞2団体、銅賞は3~4団体)、ある連盟役員の先生から、当時の北海道支部長を伴って「あなた方の演奏が一番好きでした」と励ましの言葉をいただいたことは今でも鮮明に記憶に残っています。その年のある雑誌の全日本合唱コンクールの講評欄でも「私は叙情豊かに歌った藻岩高校を推したい」というコメントをいただき、やはり大変勇気づけられました。
 評価されるために歌うわけではありませんが、やはり「良い演奏だった」という言葉に支えられるのも事実です(話は逸れますが、その後に赴任した学校で出演したイベントで、講評用紙いっぱいに「この指揮者はいらない!ジャマだ!!」という手厳しいコメントをいただいたこともあります…)。

真剣に、楽しく、結果にもこだわりながら

 合唱は指揮者にも歌い手にも、難易度の高い要求が日々突きつけられる音楽です。それでも、それを真剣に追求する事が楽しいと思える合唱活動をしたいと考えてきました。藻岩高校の後に赴任した札幌旭丘高校を指揮していた頃、入部したての1年生の生徒が「こんなゆるい練習で全国大会に行けるとは到底思えません」と言って辞めてしまうという事がありました(この年は結果的に全国大会で文部科学大臣賞をいただくことが出来ました)。また、ある演奏会で客演してくださった管楽器ソリストの方が、練習後に「私がいるので、こんなに優しくゆるい練習なのですか?」と仰られましたが、「いえ、先生がいらしていたので生徒はいつもよりかなり真剣に練習していました」と答えた事があります。このようなことは一度ではありません。
 これからも真剣に、楽しく、コンクールに出る以上は結果にもこだわりながら合唱を続けていきたいと思います。

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